ドイツ軍小火器の生産数と製造メーカー


1934年から1945年までに生産された主なドイツ軍小火器の生産数・メーカーを紹介。独軍小火器の生産数についてはおおよその数量が判明しつつあるが、資料によって差異がある。本項で紹介するデータも参考程度の数字としてご覧頂きたい。

※参考文献

■MG34-MG42 GERMAN UNIVERSAL MACHINEGUNS
発刊:COLLECTOR GRADE PUBLICATIONS INC

■The GERMAN K98k RIFLE, 1934-1945
発刊:COLLECTOR GRADE PUBLICATIONS INC

■THE SCHMEISSER MYTH GERMAN SUBMACHINE GUNS THROUGH TWO WORLD WARS
発刊:COLLECTOR GRADE PUBLICATIONS INC

■Hitler's Garands GERMAN SELF-LOADING RIFLES of WORLD WAR II
発刊:COLLECTOR GRADE PUBLICATIONS INC

■Sturmgewehr FROM FIREPOWER TO STRIKING POWER
発刊:COLLECTOR GRADE PUBLICATIONS INC

■Death from Above The German FG42 Paratroop Rifle
発刊:COLLECTOR GRADE PUBLICATIONS INC

■THE P08 LUGER PISTOL
発刊:SPECIAL INTEREST PUBLICATIES BV

■THE Mkb42,MP43,MP44 AND THE STURMGEWEHR 44
発刊:SPECIAL INTEREST PUBLICATIES BV

■歴史群像シリーズ [図説]ドイツ軍用銃パーフェクトバイブル
発刊:学習研究社


1944年初頭にドイツ陸軍兵器局が作成した主要小火器の製造に関する概要をまとめたリストに生産数(※P08は1934年以降)の項目を追加したもの。ドイツ軍小火器や弾薬の生産数は1944年11・12月頃にピークを迎え、1945年3月頃になっても生産数は大きく減少せず、この時期までは生産体制が維持されている。

リストの製造時間やコストは時期によって変動する事に注意。例えばKar98kの製造コストでは、1939年7月:75.8RM、1942年5月:65.0RMと価格が下がっており、戦時中のマウザー社(byf:Mauser Werke)で製造したKar98kの平均価格は55.4RMとかなり安い単価になっている。

製造時間に関して、マウザー社(byf:Mauser Werke)のKar98kでは、1942年3月:18.95、1943年3月:17.7、1944年3月:15.8、1944年7月:14.84(単位は時間/h)と推移しており、2年間弱で21.7%の時間が短縮されている。




■ルガーP08 / ワルサーP38


1908年から製造が開始されたルガーP08は1918年までに約150万挺を生産。第一次大戦の終結以降、生産が止まっていたP08はドイツ軍の軍備拡大に伴い生産が再開された。マウザー社での生産は1934年から1942年まで、少量が生産されたクリーグホフ社では1945年まで細々と生産が継続されたようだ。1934年以降の生産数は約94万挺。

P08の後継として登場したワルサーP38はワルサー社にて1939年より生産開始。1942年からはマウザー社とシュプリーベルケ社が加わり、1945年までに3社合計で約120万挺ほどが生産された。




■MP38



1938年の後半からエルマ社(ayf:ERMA)で生産が開始されたMP38。1940年からはハーネル社(「fxo:Haenel)も参加し2社合計の生産数は42,200挺(40,576挺説もあり)。MP40の登場により1941年で生産を終えている。




■MP40



MP40の生産数は82万~108万挺までと諸説あり正解はわからないが、可能性の高そうな数字を紹介する。この表では生産の合計数が102万挺。1945年になるとMP44/Stg44を生産するためMP40は生産されていないという説がある一方、「45」の刻印が打たれたMP40が存在しているようで、1945年にも製造された可能性がある。製造メーカーは以下の3社。

bnz:Steyr-Daimler-Puch A.G.
ayf:ERMA
fxo:Haenel



■Kar98k



Kar98kの製造数も様々な説があるが、ここで紹介する数字は現存するシリアル番号から推測したもの。1934年から1945年までの12年間で1400万挺以上が生産されている。製造メーカーは10社あり、マウザー社のオーベルンドルフ工場(byf)では1943年以降、製造数が急増している。

byf:Mauser Werke AG,Oberndorf aN
ce:J P Sauer & Sohn
ax:Erfurter Maschinenfabrik(ERMA)
ar:Mauser Werke AG,Borsigwalde
duv:Berlin-Lubecker Maschinenfabrik
BSW:Berlin-Suhler Waffen-und Fahrzeugwerke
bcd:Wilhelm Gustloff Werke
bnz:Steyr-Daimler-Puch AG
dou:Waffen Werke Brunn AG,Bystrica
dot:Waffen Werke Brunn AG,Brunn




■G.41(W)



G.41(W)の生産は2社で行われ生産数は約12万挺。1942年12月の正式採用前に1万挺ほどが生産され、実戦部隊での試験が実施されている。後継のG.43が1943年4月に採用されているが、これ以降もしばらくの間はG.41の生産が続いている。

※43年に64,636挺、44年に22,384挺という資料もあり




■G.43 / K.43



作動不良により信頼性が低いG.41の後継として登場したG.43。3社での製造数は約46万挺。このうち約1割の4.6万挺はZF4スコープ付きとなっている。




■MP43 / MP44 / Stg44



4社での生産数は約42万挺。1944年の中盤以降に生産数が増加しており、記録が残る45年3月までは生産数が維持されている。




■MG34



MG34は1935年に量産試作300挺、1936年に改良型量産試作2000挺が製造され、1937年から量産が開始されている。

1942年にMG42の登場に伴いMG34の生産規模は縮小され、戦車などの車載用として細々と45年まで生産が続いた、というイメージのあるMG34。しかしMG42採用後も生産数は大きく減少していないことが分かる。MG42は1942年3月から生産が開始されており、同年3月と4月に生産数が極端に落ち込んでいる理由はMG42の初回生産に傾注するためと思われる。



製造メーカーは5社。生産数は42万~44万挺。月ごとの合計数とメーカーごとの合計数に1.7万挺の差異があるが、参照資料そのままの数字を掲載する。

1941年からMG34の生産に加わったチェコスロバキアにあるブルーノ造兵廠(dot)は、他のMG34製造メーカーがMG42へ生産を切り替える中、終戦までMG34の生産をほぼ一手に引き受けている。1943年以降の製造品はそのほとんどが「dot」と思われる。

またブルーノ造兵廠では戦後もMG34を生産している。終戦時にフィードカバーと2脚が無い未完成のMG34が7000挺あり、不足部品を新規製作のうえ1948年に5515挺がイスラエルへ販売された。さらに1948年から1953年にかけてMG34の生産を再開。チェコスロバキア軍へ7430挺が納品されている。




■MG42



1942年3・4月以降、一時的に生産数が低下しているものの、以後は右肩上がりで生産数が伸びている。生産数の合計は約40万挺。



グロスフス社はMG42のレシーバーやフィードカバーなど多くの主要部品を製造しており、MG42を製造した主要メーカーの一つに挙げられる。しかしレシーバー後方の左側、主要製造メーカーの刻印に「bpr」と打たれたMG42は1942年の極初期生産のみ、その生産数は少ない。同社は部品を供給した下請けメーカーの立ち位置となっている。




■FG42



FG42はラインメタル社によって開発されたが、生産キャパの問題から量産はクリーグホフ社が引き受けた。同社が生産した7,873挺のうち、2,000挺が初期型。生産数の合計、約8,500挺という数字は正式採用された主要小火器の中では際立って少ない。



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