■1941年 J.P.Sauer & Sohn社製 Kar98k
1941年にJ.P.Sauer & Sohn (ザウアー&ゾーン)で生産されたKar98k。J.P.Sauer & Sohnは1751年に銃器製造メーカーとしてドイツで創立、Mauser Werke AG,Oberndorf(マウザー)と並んで最初期となる1934年からKar98kの製造に加わり、1944年までに198万挺のKar98kを生産した。これは最も多くのKar98kを生産したMauser Werke AG,Oberndorf(515万挺)に次ぐ数量となっている。
ここで紹介するのは無可動銃黎明期に米国から安全対策の加工を施した上で個人輸入されたKar98k。木製ストックを含め確認できるすべての製造番号が一致しており、各部の形状は大戦初期に生産されたKar98kの典型を示している。
各部の形状は他のページで掲載しているKar98kと重複するため、刻印を中心に紹介する。
製造メーカー J.P.Sauer & Sohn を示すメーカーコード「ce」が筆記体のような書体で、薄く細い刻印で打たれている。その下には1941年製を示す「41」、銃口側には銃身の内径を示す「7.9」。
小さな国家鷲章に並ぶ製造番号「5658 b」からJ.P.Sauer & Sohn が1941年になって25,658挺目に生産したKar98kであることが分かる。同社は41年に約21万挺を生産しているため、このKar98kの生産時期は41年2月~3月頃ではないかと推測できる。
なお他のページにも掲載しているが、独軍小火器に打たれた製造番号の読み方を再掲。製造番号は年ごとにリセットされ「1」から始まり、1万以上の数字は4桁数字+アルファベットで表記。1~9999、1a~9999a、1b~9999b、1c~9999c、d、e...と続き、年が変わるとまた1へと戻る。上の写真のようにアルファベットは4桁製造番号の並びではなく、上や下に打たれる場合も多い。
製造番号上の「×」は独軍オリジナルではない刻印。
J.P.Sauer & Sohn を示す「37」のバッフェンアムトが2つと Carl Walther (ワルサー)を示す「359」のバッフェンアムトが並ぶ。レシーバーの製造にはワルサー社も関与しているようだ。
通常、この場所には銃の名称を表す「Mod.98」という文字が刻印されるが本銃は無刻印。この仕様は他の製造メーカーも含め少数が確認できる。
ボルトに嵌合するエキストラクター固定リング。「37」のバッフェンアムト。
ボルトハンドル付け根の上面には「5658 b」、ボルト後部のボルトスリーブ上部には「5658」の製造番号。
ボルトハンドル付け根の下側。薄い刻印だが「37」のバッフェンアムト。
ボルトハンドル付け根の後方に射撃試験合格を示す国家鷲章。
ボルトスリーブ右側にはやや不鮮明だが「63」と読めそうなバッフェンアムトが2つ。「63」はマウザーまたはブルーノ造兵廠を指す。
ボルトスリーブ内に収まるコッキングピース後部には読めない「6?」のバッフェンアムト。
リアサイトベースの後方にある国家鷲章と「5658 b」の刻印。「37」のバッフェンアムトは木製ストックで一つ隠れており、3つが並んで打たれている。
リアサイトベースには「359」のバッフェンアムトが2つ。
裏面にも射撃距離数字が加工されたリアサイト。本体には刻印がなく、射距離調整スライダーの側面にマウザー(Mauser Werke AG,Borsigwalde)を示す「26」のバッフェンアムト。
マガジン/トリガーガードの前方に「5658」の製造番号。
銃口、フロントサイトベースの前方に「37」のバッフェンアムト。
フロントサイトの上面(フロントサイトガードを外した状態)。製造番号の下二桁と一致する「58」。反対側の打刻線は照準調整されたフロントサイト位置のズレを防ぐ処置。
銃剣装着基部の前面に不鮮明なバッフェンアムト。
H型バンドの右側に「37」のバッフェンアムト、左側に「5658」の製造番号。
ハンドガード固定リングの右側に「37」のバッフェンアムト、左側に「5658」の製造番号。
木の表面が荒れているため写真では数字が不鮮明だが「5658」の製造番号がハンドガード裏に打たれている。
バットストック右側、「WaA359」?かもしれない不鮮明なバッフェンアムト。
木製ストック中央部に設けられたリコイル・クロスボルトの左側に「f」の刻印。
木製ストック内側に「5658」の製造番号。