MP43 / Maschinenpistole 43
強力すぎる7.92×57mm弾と弱すぎる9×19mmパラベラム弾の中間性能を持つ新型弾薬(※以下、小型弾薬と表記)の開発が1920年以降、複数のメーカーでスタート。一定距離での命中精度や威力を維持しつつ、強い反動を抑えた良好なコントロール性能、携行弾数の増加や資材の節約などさまざまな利点が期待された。その一方、1936年のスペイン内乱などでサブマシンガンよりも威力の強いフルオート火器の開発を望む声が上がった。ドイツ陸軍兵器局はこれらの背景を基に新型小銃(Mkb = マシーネン・カラビナー)の開発をスタート。1938年5月、ハーネル社へ小型弾薬を使った新型銃の発注を行った。主な開発要求は、単純な構造で様々な環境下で確実に作動する、kar98kよりも短く軽い、射距離400mでの高い命中精度、毎秒450発以下の発射速度でコントロールが容易なフルオート射撃性能などである。
この要求を受けたハーネル社はヒューゴ・シュマイザーを開発リーダーとしてMkbの開発に着手した。複数が開発されていた小型弾薬の中からポルテ社の7.92×33mm弾を採用し、銃本体には精度が要求されるスチールのプレス部品を大幅に取り入れて、生産性の向上を目指した。しかし開発は難航し、1941年末になってようやくM.K.42(H.S.)と呼ばれる最初の試作銃が完成。その後のテスト結果を反映させて改良を施した銃がMkb42(H)と名付けられて量産計画が進められた。Mkb42(H)は変形や破損に強く確実な作動で信頼性が高かったが、オープンボルト方式のため、命中率が悪いという欠点があった。メカニズム的には旧来の短機関銃の域を出ない堅実な設計となっていた。
一方、ハーネル社の開発情報を掴んだワルサー社は独自に開発を進めていた7.92×57㎜弾を使う新型自動小銃から得た技術を基にMkbの開発を決定し、1941年1月にドイツ陸軍兵器局はこれを認可。ハーネル社との競作になった。ドイツ陸軍兵器局はこの時点でハーネル社から示されていたMkbのデザインについて一定の評価を与えており、開発期間短縮のためワルサー社に対してハーネル社のデザインを模した形状とし、マガジンも共通とすることが求められた。異なる2社で開発された試作銃の外観が似ているのはこの為である。Mkb42(W)と命名されたワルサー社の銃はクローズドボルト方式で命中率に優れたが、ガスピストンシステムの汚れや変形による作動不良、複雑な構造、大型エジェクションポートからの異物の侵入など複数の欠点も有していた。
1942年7月のテストではそれぞれに長所と短所がありどちらの銃を採用するのか結論が出なかったが、火器の不足を少しでも補うために量産化をしつつ実戦投入でテストを継続する事となった。Mkb42(H)とMkb42(W)は量産化が進められたが、どちらも生産が難航した。それでも極少数の生産に留まったMkb42(W)に対してMkb42(H)は約11,000挺が生産され実戦で大きな効果を発揮。前線の将兵からも本銃に対する評価が高まってきた。
この実戦投入テストの前後、ドイツ陸軍兵器局はMkb42(H)の弱点であったオープンボルト方式での命中率を改善するためクローズドボルト方式に改良したMP42(HS)をテストし良好な成績を収めると共に、量産計画の遅れと作動不良や複雑な構造が欠点となっていたMkb42(W)に対しての興味は薄れていった。MP42(HS)は1943年1月になるとMP43という仮称で呼ばれるようになり、ハーネル社ではMkb42(H)をMP43A、MP42(HS)をMP43Bとして生産・開発を進めていたが、のちにMP43Bに一本化しMP43として量産計画が進んでいた。
MP43は1943年6月~12月頃に生産されたMP43/1とその後に生産されたMP43の2種類が存在する。MP43/1はMkb42(H)と同じピッチのネジをマズルに備え、短機関銃用の42型グレネード発射機の装着が可能であった他に、一部のMP43/1では光学照準器を取り付けるためのリブがリアサイト基部に設けられていたが、これ以外はMP43と同じ銃であった。MP43では銃口周りの形状やバレルに段差を設けるなどの若干の改良が施されKar98kなどに使えるシースベッヒャー2型(グレネード発射器)の取り付けが可能となった。
新型小銃の開発と量産が進む中、ヒトラーはこの流れを止めようしていた。1942年4月、1942年11月、1943年2月と複数回に渡ってヒトラーへMkb42を提示したが、新型小銃の生産を許可しなかった。その理由は、小型弾薬の投入により既存弾薬(7.92×57mm)の生産や補給に悪影響を与える、より強力な新兵器を期待していたヒトラーにとって既存弾薬よりも威力の劣る弾薬に興味を示さなかったなど複数の説があるが、この判断にドイツ陸軍兵器局は従うことなく開発・生産を続行し、前線の将兵も新型小銃への期待を高めていた。新たなカテゴリーに属する本銃の名称がMkbからMP(Maschinenpistole/短機関銃)という名称に変更されたのも、新型銃開発という事実をヒトラーに隠すためと言われている。
密かに開発と前線への配備が進んでいたMP43であったが「一挺でも多くのMP43を前線に!」という将兵の声を聞き、ヒトラーは自身が否定し続けた計画が進行していることを知る。その後、改めて本銃の実態と評価を確認したヒトラーは本銃の価値を認め、生産拡大を指示する事となる。MP43は1944年4月にMP44、1944年12月にはStg44と名前を変え終戦までドイツ陸軍歩兵部隊の火力強化に大きく貢献した。
■各部のディテール紹介
・レシーバー その1